こんにちは^ ^
突然ですが、ご自身の人生を振り返ってみて、「あれは“何か”に守ってもらったよなぁ、、」って思えるようなご経験ってありますか?
僕にはいくつかあるんです。
それが起きたその時は、「ラッキーだった・・」って思っただけのことでも、時が流れて後から振り返ってみた時に、そんな出来事がいくつかあったことに気づくと、決して偶然の幸運ではなかったんじゃないか、って思えてくるんです。
それらの出来事は、「人生の岐路に関わること」と「命に関わること」の、大きく2つに分かれるように思うのですが、今日の記事では、「命に関わること」の方に絞って書きたいと思います。
1995年
エピソード1
このエピソードは1995年1月16日から始まります。
当時、僕はマーケティング部署(商品企画)に所属していました。この日、僕は同じ部署の先輩と一緒に、自社の札幌支店に新製品の社内説明で出張して来ていました。
その任務自体は無事に終了し、その日はそのまま札幌のホテルに宿泊したんです。
そして翌日。1月17日のホテルでの早朝です。
僕は朝5時半ぐらいに起床し、すぐさまシャワーを浴びに浴室へ。15分ほどで浴室を出てから、何気なくテレビのスイッチを入れました。
テレビの画面に映ったのは、
たった今、神戸市を中心にとてつもなく大きな地震が起きたことを報じるニュース速報。
『阪神・淡路大震災』です。
「札幌にいるのに何か関係があるの?」って、ふつうならそういう話なのですが、この時の僕には大いに関わりがありました。
実はこの日、僕は千歳空港発の飛行機で伊丹空港まで飛んで、昼すぎから現地の営業担当セールスに同行して、神戸市内のお得意先の訪問活動を行なう予定だったのです。
通常ならこんな無茶な業務スケジュールは組んだりしないものですが、この時は、神戸エリアを担当する自社の大阪本店の営業セールスの業務スケジュール上、どうしてもこの日しか都合がつかないという話になり、
「しんちゃは若いし大丈夫だよな?札幌からそのまま伊丹まで飛んでこなして帰って来い(笑)」
みたいな感じで上司から指示が出て、そんな強行スケジュールが決まっていたのでした。
早朝のニュースで震災発生の事実を知ったものの、その日は、朝一番で再度札幌支店に出社して挨拶をしてから空港に向かう予定にしていたため、何はともあれ予定通りに札幌支店へ。
そこから大阪本店の営業管理マネージャーに電話を入れてみると、こんな一言でした。
「まだ状況が正確に把握出来てないんやわ。何はともあれ来たいって言うなら来てもええけど、おそらく何もできんと思うでー。」
結局、この日の予定は中止とし、そのまま東京に戻ったのでした。
エピソード2
1995年3月20日。この日は「月曜日」でした。なぜ、今でも曜日まで覚えているかといえば。
この頃、僕はまだ未婚で、神奈川県の横浜市にあった会社の独身寮に住んでいました。しかし、車は駐車場の都合で埼玉の実家に置いており、週末だけ実家に戻って車を使用し、翌日の月曜日はいつも実家から会社に出社していたのです。
このエピソードの “舞台” は「朝の通勤電車」。
そしてその路線の名前は「地下鉄日比谷線」。
『地下鉄サリン事件』
あの無差別テロ事件があった日比谷線の電車の、僕は1本前の時間の電車 に乗っていたのでした。事件が起きた電車の2、3分前に走っていた電車ですね。。。
※エピソード1、2共に、当時、直接つらい思いをされた方がたくさんいらっしゃることを承知していますので、関連画像やニュース記事の引用は控えます。
1988年&2016年
僕にとって、この2つの年の共通点はこれです。
「ふつうなら死傷事故になっていたレベルの車両事故に遭遇した年」
1988年のエピソード
入社2年目、大阪で営業セールスをしていた時の車両事故です。場所は京都。その週の睡眠時間は連日4時間程度、そして前日の睡眠時間が3時間でした。
一方通行で流れる国道(171号線)を直線走行中、ほんの数秒(だと思うのですがわかりません)、いつの間にかハンドルを握ったまま静かに眠りに落ちてしまい、「はっ!」っと目が覚めると、正面行き止まりのT字の交差点手前から数メートルの距離。
急ブレーキを踏みながら右に急ハンドルを切り続けるも、あまりの急ハンドルに、車両はブレーキ音を立てながら左前方にスライド、その先にあるガードレールの切れ目のポール部分に真っ正面からぶつかる形で停まりました。バンパーはグジャグジャでした。
衝突時のスピードは40キロぐらいだったでしょうか、、これも実際はわかりません。。
あの時、もしもう少し目が覚めるのが遅かったら。
T字交差点の真正面は、ガードレールがなく、人が歩くことが可能な道がありました。もし、ガードレールのポールにぶつかるのではなく、人が歩いているところに突っ込んでいたら。
その日の夜、独身寮の風呂で一緒になった同僚が、今でもたまに僕に言います。
「あの日の夜、しんちゃの胸についていたシートベルトの跡は、今でも鮮明に覚えてるよ、、、」
2016年のエピソード
父の葬儀が終わって約1週間後の土曜日です。下の娘と2人で実家の母を訪れた帰り道の夜でした。自宅まであと車で15分の距離。
交差点を直進中、右側から赤信号無視で直進してきたワゴン車に、自車両の右後ろのタイヤのあたりに追突を受けました。
相手の方は夜の勤務を終えたばかりの看護師さん。駅までご家族を迎えに行くためにハンドルを握っていたそうですが、とてもお疲れだったのでしょう、一つ先の青信号を見てそのまま直進してしまったとのことでした。
僕の車は前輪駆動のミニバンです。追突された瞬間、反射的にブレーキを踏み続けてしまったのが原因なのでしょう、車は、前輪を起点にして、時計回りでゆっくりと回転し始めながら直進を続けたのでした。まるでアイススケーターが片足を軸にゆっくりと弧を描いて滑るかのように。
僕はその時、察しました。
「何かに衝突するまでもう車は止めようがない。」
そして思わず娘にこう発しました。
「●●ちゃん、ダメだ、ぶつかる!」
僕は、助手席に座る娘を左手で強く引き寄せて、何かへの衝突に備えることしかできませんでした。
その瞬間。
「ガタガタガタガタ!!!ガタン。」
と大きな音がして、車は止まったんです。
車から出てみると、僕の車両は、なんと、反対車線から見て交差点手前の停止線のあたりで、まるで向こうからやって来てふつうに停まった車かのように、180度回転してきちんと停車していたのでした。
おそらくは、車道と歩道の段差の部分に車体が並行に沿えるような絶妙な角度で、左側のどちらかの車輪から段差の真下に入れたことで、段差が、左側の両車輪のストッパーになってくれたようです。加えて、その歩道に設置されていたポール型の標識が左ドアミラーに接触した形跡があったので、この標識も車体が歩道に乗り上がらないようにストッパーになってくれた可能性があります。
交差点内で追突されたことによる車の損傷は大きかったのですが、その後に負った車の損傷はほぼかすり傷、僕も娘も無傷、歩行する人を巻き込むこともなく、相手の方も無傷、そして相手方責任100%で決着したこの事故は、おそらく「ものすごい奇跡」なんだと思います。
今こうして平穏に生きられている奇跡
今日の記事で書いた4つのエピソード。
どれも、何かしらタイミングがズレていたら、僕は今こんな風にブログ記事を書ける平穏な日々には存在していなかったに違いありません。
とうの昔に命を落としていたかもしれないし、今に至るまでずっと病院や介護施設で生活していたかもしれない。あるいは会社を懲戒解雇されて交通刑務所での刑期を終えた後、一生降ろせない罪の意識を背負いながら独りぼっちでかろうじて生きていたかもしれない、って思います。
そんなふうに思いを巡らす時、今日の記事で書いた出来事のことは、「ラッキー♪ ラッキー♪」などと一時的な偶然の出来事として片付けるのではなく、“見えない何か” に何度も守ってもらってきているのだと捉えるべきだよな・・・って思いに至るのです。
少なくとも、 「良心に忠実に生きる」ということだけは外しません、って日々心することは、その “見えない何か”に対して感謝の意を表すことにつながるんじゃないかって思っています。
僕の場合、“見えない何か” から直接何かを聞ける能力は見事にありません(笑)。
おそらくは、僕が “へなちゃこ”ということで、その “見えない何か” は、きっと僕がびっくりしすぎないようにうまーいこと配慮して守ってくれているのでしょう^^;
“見えない何か” のこと、そして、感謝の意がちゃんと表わせているのかどうかってこと、のどちらも、科学的に証明など出来ませんから、すなわち。
「僕はそう信じる」の世界の話です☺️