こんばんは♪
週末限定ブロガーゆえの本日のタイムリミット、あと数時間となっておりますが^^;、先ほど風呂で頭を洗っている最中に、ふと、「あの記事、少し加筆修正した上で再投稿しよう。」って頭に浮かんできた、自身の過去記事があります。
いつものスイッチオフ状態ではなく、半分オンの状態で書いた数少ない記事です。
再投稿すると当時のスターが消えてしまうのですが、自身の過去記事はスクリーンショットで撮影してスマホのメモ(と頭の中)にちゃんと残してありますので、当時その記事にスターをつけてくださった方、どうかご容赦下さい🙇🏻♂️
尚、元の記事は昨年の11月30日(月)の投稿なので、一部当時の古いニュース情報が出てきますが、それはあまり重要ではないので校正をかけずに参ります。
社歴30年余りを通じて僕が確信している、「情報というものについて」の認識のお話です。
結果として昨日からの連投になりますが、よろしくお願いします(╹◡╹)
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こんばんは ♪
今日は自分のここまでの会社キャリアを通じて知った、「情報」に関する話を書こうと思います。
なんだかいつもより文字が増えそうな予感(^^;
なんと「結論」が先にありき
企画は“アイデア”から始まる
僕の会社キャリアは、入社してから5年ほどは営業職でしたが、それ以降は今に至るまでずっとスタッフ職です。スタッフ職期間の前半がマーケティング、そして後半が今現在に至るまで人事労務系です。ざっくり言えば、いずれの職も「情報を分析した結果を以て新しい行動を社内外に提案する」ことが共通点の仕事です。
こう書くと、情報を分析しつくしてみて初めて提案することが決まってくるかのようですが、実務の実態はちょっと違ったりします。
実は先に結論があることがほとんどなのです。
正確には「結論(案)」ですね。
この「結論(案)」は、いわば、提案者自身、所属部署の上司、あるいはもっと上の階層レベルの人が抱く「こうなったらいいな」という、意図的あるいは感情的な想いみたいなものです。もちろん、各々の人が既に持っている多くの知見から思いつくものだったりもしますから、全く非科学的だったり非常識なものだったりすることは少ないとは思うのですが、それでもその段階ではまだ「アイデア」というカテゴリーに属する性質のものじゃないかって思います。
上司と部下の禅問答。
僕がまだ20代の頃のずいぶん昔の話ですが、最初に所属したマーケティング部署の上司(東大卒)が僕に説明してくれたことがあります。
「いいかい、企画っていうのはな、うまく言葉で説明できないんだけどさ、なんていうか、結論が先にあるんだよ。」
「でな、その結論を、データでちゃんと説明できるか検証していって、説明できるストーリーがちゃんとできればその結論で行けるって思って進めていいんだ。でも説明できるストーリーが作れない時は、その結論は使えないってことなの。わかるかな??」
この話をしてもらった時の僕は、市場調査データの渦に飲み込まれてしまっている真っ只中で、「もう何が自分の考えなのかわからない!」とか発して苦悩していた状態。説明してもらった意味はまったく理解できませんでした。
そもそも当時は、「マーケターとしての誠実な仕事とは、いかに情報データを “正確に” 読み取ってそこから “唯一絶対の正しい” 結論を導き出すか」だと信じていましたし。。
上司は、
「そっかぁ、まだちょっと今はわかんないよな!まぁそのうちだんだんわかってくるから(笑)」
という言葉で場を締めて席を立たれたのでした。
実際、その時に説明をしてもらったことの意味を僕が実務の感覚としてなんとなく理解できるようになったのは、それから5年以上も後のことです。
情報とは「多面体」だと思う
懐かしのルービックキューブ。僕が高校生の時に流行りました^ ^
情報っていわばこのルービックキューブみたいなものだって僕は思います。
このキューブは六面体ですけど、要は見る角度によっていくつもの面があるということです。
どの面から見てもそれはキューブであるという事実に変わりはありませんが、その特定の面はあくまでキューブの一部分であって決して全体を正確に表しているわけではないんですね。
さらにもうひとつ。
キューブには同じ面の中にも複数の色があります。どの一色をとっても間違いなくキューブの構成要素であるわけですが、これまた特定の一色では決して全体を正確に表すことはできません。
つまり・・・情報っていうのは、見る角度や位置あるいは見る大きさを変えることで、まるで別物のような顔になりうるものなのです。
「結論が先」×「多面体」=?
仕事とは限られた時間で成果を出す生産性が求められます。仮に毎日午前様で働いたとしたって、人間はずっと寝ないで働くことはできないわけで、やはり時間の制約はあるということは働く前提なんだと思います。
見る角度や場所によって無数に正しさがある性質を持つ情報の総体から「唯一絶対的な正しさを導き出すぞ!」なんてやっていたら、昔の僕のように情報の渦に飲み込まれてしまってオシゴトにならなくなってしまうわけですね笑
だから先に、いわば “仮羅針盤” みたいな位置づけで「結論(案)」を据える必要があるのです。
その「結論(案)」が有効が無効かを検証するという視点で臨むことによって、無数の顔で構成される情報に飲み込まれることなく効率的に分析・考察を進めることができるわけです。
「結論(案)」を思いついた時には、たいがいの場合、それとセットで「なぜそれなのか」ということを説明するストーリーのイメージも一緒に頭に浮かんできます。「仮説」って言えばいいですかね。
「結論(案)」を実行に移していいものなのかどうかを検証する作業というのは、ある意味、情報の総体からこの「仮説」の正しさを証明できそうな特定の面、あるいは面の中の一部分を切り取ってきて、「なるほど!」って多くの人に思ってもらえそうなストーリーに組み立てるような感じです。それがうまく作れない時は、その「結論(案)」はボツ。
切り取ってきたものはどれも情報の総体の構成部分だったものなので「決してウソではない」わけなんですけど、でもちょっと乱暴に言うと、“都合の良いところ” だけ切り取って組み合わせた感じもあるので、その時点で “新たな価値を持つ別物” に変わってしまったりすることも起こりうるような気がするな、って僕はいつの日からか感じていました。
僕が気づいてしまった “ちょっと怖い” こと
さらに気づいたことがあります。
それは、情報とは、その気になれば、「自分が意図する結論は絶対的に正しい」という見せ方にいかようにもあしらえることができる、ということです。
ちょっと大げさかもしれませんが、白を黒にすることですら、情報の切り取り方や組み合わせ方、あるいは不都合な部分にはあえて触れないようにすることによって、嘘をつかずとも多くの情報の受け手に「それは黒だよね」って認識してもらうことができうるほどの性質を持つものだと思うのです。
僕にはそこまでのスキルはとてもありませんが、極めて頭脳明晰な優れた人であればおそらくそんなこともきっと容易にできてしまうんじゃないかって思います。それが「情報」というものが持つ性質です。
それゆえ、情報を作成して発信する立場の人には、「良心」がとっても大切だと思うのです。
最近一番の気になる “情報発信”は・・
やはり、、「コロナ感染者数」報道です。
本日の陽性者数「全国1,402人」、先週の半ばあたりで全国感染者数「累計14万人超」って報道を目にしました。
今春からずっとそうですけど、明らかに欠落している情報があります。
- 母数は?(何人が検査したの? 率は?)
- その人数ってどんな規模感なの?(インフルエンザの年間感染者は毎年1,000万人を超えてるらしいけど)
社内の企画提案で、もし、企画キャリア3年以上の社員がそんな欠落のある提案を連発したら、その人は次の人事異動で部署から放出されます。
情報作成・発信をする上ではそれぐらい基本中の基本のことなのです。
報道に携わる人たちは頭脳明晰な優秀な人ばかりでしょう。そんな基本事項を、それも皆が皆、失念するはずがありません。
僕はこうとらえています。
「それらの基本情報は、少なくとも “実現したい結論” からすると触れない方がいいって判断されている事実なんだろうな。。」
僕らにとって大切なこと
このコロナ感染者数報道について言えば、その報道が “実現したい結論” が何であるのか、ということは僕らにとってはあまり重要ではないんじゃないかって思っています。憶測したところで誰もほんのりワクワクできそうにもないし。
大事なのはこれだと思っています。
- 情報というものの持つ性質を知っておくこと
- マスメディアからの情報だからという理由ですべて鵜呑みにせず、ちゃんと自分の頭と心を使うよう意識すること
なぜこれが大事かはこの2つです。
- 不安と恐怖で免疫を落とさないため
- 不安と恐怖の強いパワーに引っ張られて、幸せを選択しやすい “ポジティブとネガティブの両方のバランスがとれる真ん中あたり”の心の位置を見失わないため
バランス修正。。
月曜の夜に書く記事にしてはちょっと根を詰めすぎてしまったようで、思いの外、疲れが・・・笑
記事のタイトルには全く関係ないんですけど(^^;、今日の記事はこれでクロージングさせてください。
昨夜の夕飯で、陶芸2作品目の『しゃぶしゃぶとかのタレ入れ』、やっとデビューしました♬
平穏な幸せをありがとうございます(╹◡╹)
※2021.5.30追記:陶芸は今年の3月で休会しています。
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再投稿の本記事は以上になります。
僕がなぜこの記事を「再投稿しようと思ったか」は書きませんので、人の数だけ正しさはある、ということで、何か感じていただけたら幸いです(╹◡╹)