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令和時代の幸せの鍵は「信じる」力だと思う

今日の記事では、「信じる」ということについて書こうと思います。

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「信じる」とは非論理的な意思決定

大人になるほど使わなくなってる言葉?

「信じる」

子供の頃はよく口に出していた気がするこの言葉。この言葉を口に出すと、なんだか心が少し高揚する感じがあったような気もします。

大人になってからはもうめっきりこれですね。

「わかりました。」「承知しました。」「了解です。」「理解しました。」、、、、

 

『信じる』との出会い

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娘が中学校3年生の時に、合唱コンクールのピアノ伴奏をしました。その時の楽曲が、谷川俊太郎さんが作詞した『信じる』という曲です。

『信じる』 

作詞:谷川俊太郎 作曲:松下耕

笑うときには大口あけて
おこるときには本気でおこる
自分にうそがつけない私
そんな私を私は信じる
信じることに理由はいらない


地雷をふんで足をなくした
子どもの写真目をそらさずに
黙って涙を流したあなた
そんなあなたを私は信じる
信じることでよみがえるいのち


葉末(はずえ)の露(つゆ)がきらめく朝に
何をみつめる小鹿のひとみ
すべてのものが日々新しい
そんな世界を私は信じる
信じることは生きるみなもと

受験勉強の合間を縫ってピアノ伴奏の練習をしていた娘を見ていたことで想いも高まっていたのだろうと思いますが、合唱コンクール当日の娘のピアノ伴奏する姿、そしてその伴奏に乗った中学生達の歌声、そしてメロディーと歌詞は、本当に感動的で目が潤んでしまうほどでした。

音楽はとっても好きだというのに、子供の頃からなぜか歌の歌詞の意味がなかなか頭に入ってこない僕は、人生の大半をもっぱら歌詞のない曲ばかり好んで聴いてきました。そんな僕だというのに、この『信じる』は、数年経った今でも歌詞を見ないでフルコーラスを歌える “不思議な” 楽曲なのです。

 

「理解する」VS「信じる」

頭の中に歌詞が全部あるっていうのは便利です。その曲の歌詞の意味についていつでもどこでも考えることができるんですね!

この曲の歌詞の意味について考えているうちに、以前に何かの本かネット記事で読んだ、「理解する」「信じる」の違いについての話を思い出しました。 

 

この2つの違いは、ざっくり言うと、その対象となった事柄の性質の違いにあります。

 

まず先に、「理解する」の対象となった事柄ですが、これは、科学的・論理的に説明がされているもの、って感じです。

これに対して、「信じる」の対象となった事柄の方ですが、一言で言えば「理解する」の反対。非科学的であったり論理的に説明がされていない、あるいは説明のしようがないもの、という感じです。

 

この捉え方を前提として、もし、その対象となる事柄由来で何か不都合な事態が発生した時の「責任の所在」ということについて掘り下げてみます。

まず、「理解する」の方。

理解して受け入れた結果で起きた不都合な事態の責任は、情報発信元である、相手(自分以外)になるのでしょう。象徴的なフレーズがあるとしたらこれでしょうか。

 

「お前のせいで!!」

 

一方、「信じる」の方ですが、こちらの情報には、もともと科学的あるいは論理的な説明はなされていませんから、人によっては一笑してそもそも相手にもしないような内容だったりすることもあるかもしれません。

そんな事柄を自らに受け入れる場合には、「理解する」のように「もし何か不具合があったらお前のせいだからな!」なんてことを暗黙の前提にしてはいけないように感じます。

科学的・論理的に担保されていない事柄だけどあえて自らに受け入れるということが「信じる」という行為であるのなら、もし何か不具合が発生してしまった時でもそれは誰かのせいではなく「自己責任」になることをあらかじめ承知しているべきなのだろうと、最近、僕は思うようになりました。

つまり、「信じる」ことには「覚悟」も必要なんだと思います。

 

僕の「信じ方」

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信じるための拠り所?

その対象となるものに、科学的あるいは論理的、すなわち客観的な正しさの裏付けがない時に、それを信じることにするかどうかを一体どうやって決めたらいいのでしょうか?何を拠り所にしてそれが信じてもよいことなのかを判断したら良いのでしょうか?

 

絶対的な正解は、、、、

 

(あるのかどうかを含め)「わかりません!!」

 

しかし、信じることは「自己責任」なのだし、その結果が良いものでも悪いものでも全て自分が引き受けます、って前提なのだから、そうなるともはや「何が絶対的な正解なのか」などということはそれほど重要なことではないんじゃないかって思えてきます。

そうなると “自分にとっての” 正しさが大事

日々の社会生活では、信じるかどうかが問われるシーンよりも、理解が問われるシーンの方が明らかに多いですよね。それだけに、信じるって行為は、個人の信条とか価値観といった、基本的には自分の内面的な世界のものなのだろうって思います。

 

僕の場合、信じるにあたっては、次のようなプロセスを踏んでいるように思います。

 

  1. 良心に反していない
  2. ほんのりワクワクを感じる
  3. そのことを知ってから数日間経っても違和感が生じない ※特に朝の感覚は大切

  4. それを信じると、自分が望むことを実現する上で、なんとなく勇気がもらえる感じがする

 

自身の信条に関わるような大ネタでなければ、上記の3は割愛することもあります。

 

こういう拠り所をもって信じる対象を決めているので、僕が信じている事柄は必ずしも世の中で常識とされていることとは一致していなかったりします。その中には既存の科学で証明されていない “非科学的” なこともいくつかあります。

 

令和は「信じる」力の時代

これからは多様性の時代と言われています。多様性の時代において求められているのは「自律力」です。

自律力=自己責任力。これからの時代は、一人ひとりの自己責任を前提に、それぞれが望む幸せをもっと自由に選択していっていい時代になっていくんじゃないかって思うのです。

なにより、自分が「やりたいなぁ」「いいなぁ」って感じることに素直に心の照準を合わせて生きていける時代が来ると、世の中に幸せな人がたくさん増えるような気がします。

「理解する」はこれからももちろん重要な力だと思います。しかし、これまでの時代では「理解が100%になるに越したことはない」という考え方が暗黙の前提にされていたために “生きづらさ”もあったような気がするのです。

「理解する」<「信じる」

僕は、令和時代はどんどんそんな風になっていくんじゃないか、って、「信じている」のです(╹◡╹)

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