“緑色”的な僕のほんのりワクワクblog

優しい気持ちを増やしたい♪

信じる。

今週は投稿予定ではなかったのですが、「近々記事にしたいな」と思っていた話題とのご縁が思いがけず訪れたので書くことにしました(╹◡╹)

記事の入り口は、今日観てきた映画、ですが、そこから先は、このブログを始めて間もない頃に書いた記事の再掲となります。再掲ですが、毎回訪問してきてくださるブロガーさんには読んでいただきたいなって思うので、装飾効果?としてリンクを貼るのではなく、丸ごと転記にしようと思います☺️

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🎦今日観てきた映画。

その映画はこちらです。

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『アバター ウェイ・オブ・ウォーター』

コロナ禍の始めの頃にレンタルで初作を視聴してとっても感銘を受け、続編を心待ちにしていた映画でした♫

こちらが予告編です。

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映画の公式サイトから「あらすじ」を拝借します。

世界歴代興行収入No.1の超大作『アバター』が、巨匠J.キャメロン監督自身の手により、人類史上最高の映画シリーズとして新たな奇跡を巻き起こす。それは、「観る」の先にある“超現実”映像体験──神秘の星パンドラの一員となった元海兵隊員のジェイクは、ナヴィの女性ネイティリと家族を築き、子供たちと平和に暮らしていた。再び人類がパンドラに現れるまでは…。神聖な森を追われた一家は、“海の部族”の元へ身を寄せる。だが、この美しい海辺の楽園にも、侵略の手は迫っていた…

アバター:ウェイ・オブ・ウォーター|20世紀スタジオ公式

僕のつたない言葉で設定を超ラフにご説明すると、「地球滅亡の危機にある人類が、新たに住むための地として、パンドラ、という星を武力で侵略しようと乗り込んできたのに対して、その星に住む、ナヴィ、という民族が、自分たちの星の平和を守るために戦うお話」です。別の入口から補足すると、「初作で、侵略側の人類だったジェイクがナヴィの一族に転化しエリーという新たな名を持ちパンドラで家族をつくり生活しているのですが、今回の第二作では、裏切り者として人類から命を狙われるお話」です。

もし初作は観ないで今回のを観に行ってしまおうと予定されている方がいらっしゃいましたら、「4分でわかる!」と銘打った解説をアップされているYouTuberさんをご紹介しますのでご参照ください♪

【超わかる】映画『アバター』(2009)2時間41分を4分で最速復習|アバター2を観る前に【ウェイオブウォーター】 - YouTube

📝感想。

3時間を超える大作でしたが、近くに人が座ってなかったこともあって、終盤からは自宅のように「あっ!」とか「危ない!」とか声が出まくりの迷惑なおじさん(笑)、身を乗り出すように観賞、完走でした♪

鑑賞時の僕の気持ちの変化で全体を4つに分けて表現するとこんな感じです。

  1. 序盤:人類のエゴが悲しく怒りを覚える
  2. 前半:「家族を守る」は僕も人生の最優先だ
  3. 中盤:海とは愛の存在なんだな
  4. 終盤:「戦い」ってなんなんだろう

映画は、主役のエリーのこんな一言で終わります。

「逃げていては家族は守れない」

考えさせられました。というかなんか思いがけず違和感が少し残りました。ここで言う “逃げる” とはどういうことを言っているのだろうか・・・🤔

さて、映画の中盤以降で何度も出てくる言葉がありました。それが今日の記事のタイトルにつながります。

「僕(私)を信じて。」

何か初めてのこと、とっても難度が高いことをやろうとする前にこの言葉が発せられていました。

何度も耳にするうちに、ブログ始めたての頃に書いた自分の記事を思い出したんです。

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☘️僕にとっての「信じる」

では、2年前に書いたその記事を“丸ごと転記”します。記事のタイトルは『令和時代の幸せの鍵は「信じる」力だと思う』です。

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今日の記事では、「信じる」ということについて書こうと思います。

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🤔プロローグ

「信じる」 子供の頃はよく口に出していた気がするこの言葉。この言葉を口に出すと、なんだか心が少し高揚する感じがあったような気もします。

大人になってからはもうめっきりこれですね。

「わかりました。」「承知しました。」「了解です。」「理解しました。」、、、、

これらの言葉を口にした時、幸せな感情が湧いてきたことは、あまりなかったように思います。

🍀『信じる』との出会い

娘が中学校3年生の時に、合唱コンクールのピアノ伴奏をしました。その時の楽曲が、谷川俊太郎さんが作詞した『信じる』という曲です。

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『信じる』 

作詞:谷川俊太郎 作曲:松下耕

笑うときには大口あけて
おこるときには本気でおこる
自分にうそがつけない
そんな私を私は信じる
信じることに理由はいらない

地雷をふんで足をなくした
子どもの写真目をそらさずに
黙って涙を流したあなた
そんなあなたを私は信じる
信じることでよみがえるいのち

葉末(はずえ)の露(つゆ)がきらめく朝に
何をみつめる小鹿のひとみ
すべてのものが日々新しい
そんな世界を私は信じる
信じることは生きるみなもと

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音楽はとっても好きだというのに、子供の頃からなぜか歌の歌詞の意味がなかなか頭に入ってこない僕は、人生の大半をもっぱら歌詞のない曲ばかり好んで聴いてきました。そんな僕だというのに、この『信じる』は、数年経った今でも歌詞を見ないでフルコーラスを歌える “不思議な” 楽曲なのです。

もしご興味を感じられたら、ぜひ下掲のYouTubeで最初の方だけでも聴いてみてください☺️

【合唱曲】 信じる - YouTube

⚠️「理解する」VS「信じる」

頭の中に歌詞が全部あるっていうのは便利です♪ その曲の歌詞の意味についていつでもどこでも考えることができるんですね!

この曲の歌詞の意味について考えているうちに、以前に何かの本かネット記事で読んだ、「理解する」「信じる」の違いについての話を思い出しました。 

この2つの違いは、ざっくり言うと、その対象となった事柄の性質の違いにあります。

まず先に、「理解する」の対象となった事柄ですが、これは、科学的・論理的に説明がされているもの、って感じです。

これに対して、「信じる」の対象となった事柄の方ですが、一言で言えば「理解する」の反対。非科学的であったり論理的に説明がされていない、あるいは説明のしようがないもの、という感じです。

この捉え方を前提として、もし、その対象となる事柄由来で何か不都合な事態が発生した時の「責任の所在」ということについて掘り下げてみます。

まず、「理解する」の方。

理解して受け入れた結果で起きた不都合な事態の責任は、情報発信元である、相手(自分以外)になるのでしょう。象徴的なフレーズがあるとしたらこれでしょうか。

「お前のせいで!💢」

一方、「信じる」の方ですが、こちらの情報には、もともと科学的あるいは論理的に十分な説明はなされていませんから、人によっては一笑してそもそも相手にもしないような内容だったりすることもあるかもしれません。

そんな事柄を自らに受け入れる場合には、「理解する」のように「もし何か不具合があったらお前のせいだからな!」なんてことを暗黙の前提にしてはいけないように感じます。

科学的・論理的にその正当性が担保されていない事柄だけどそれをあえて自らに受け入れるということが「信じる」という行為であるのなら、もし何か不具合が発生してしまった時でもそれは誰かのせいではなく「自己責任」になることをあらかじめ承知しているべきなのだろうと、最近、僕は思うようになりました。

つまり、「信じる」ことには「覚悟」も必要なんだと思います。

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🧚信じ方。

信じるための拠り所は?
その対象となるものに、科学的あるいは論理的、すなわち客観的な正しさの裏付けがない時に、それを信じることにするかどうかを一体どうやって決めたらいいのでしょうか?何を拠り所にしてそれが信じてもよいことなのかを判断したら良いのでしょうか?

絶対的な正解は、、、、

(あるのかどうかを含め)「わかりません!!」

でも信じることは「自己責任」なのだし、その結果が良いものでも悪いものでも全て自分が引き受けます、って前提なのだから、そもそも「何が絶対的な正解なのか」などということはそれほど重要なことではないんじゃないかって思えてきます。

そうなると “自分にとっての” 正しさが大事です。
日々の社会生活では、信じるかどうかが問われるシーンよりも、理解が問われるシーンの方が明らかに多いですよね。それだけに、信じるって行為は、個人の信条とか価値観といった、基本的には自分の内面的な世界のものなのだろうって思います。 

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僕の場合、信じるにあたっては、次のようなプロセスを踏んでいる感じです。

  1. 良心に反していない(心がザワつかない)
  2. ほんのりワクワクを感じる
  3. そのことを知ってから数日間経っても違和感が生じない ※特に朝の感覚は大切
  4. それを信じると、自分が望むことを実現する上で、なんとなく勇気がもらえる感じがする

自身の信条に関わるような大ネタでなければ、上記の3は割愛することもあります。

こういう拠り所をもって信じる対象を決めているので、僕が信じている事柄は必ずしも世の中で常識とされていることとは一致していなかったりします。その中には既存の科学で証明されていない “非科学的” なこともいくつかあります。

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🌅令和は「信じる」力の時代

これからは多様性の時代と言われています。多様性の時代において求められているのは「自律力」です。

自律力=自己責任力。これからの時代は、一人ひとりの自己責任を前提に、それぞれが望む幸せをもっと自由に選択していっていい時代になっていくんじゃないかって思うのです。

なにより、自分が「やりたいなぁ」「いいなぁ」って感じることに素直に心の照準を合わせて生きていける時代が来ると、世の中に幸せな人がたくさん増えるような気がします。

「理解する」はこれからももちろん重要な力だと思います。しかし、これまでの時代では「理解が100%になるに越したことはない」という考え方が暗黙の前提にされていたために “生きづらさ”もあったような気がするのです。

「理解する」<「信じる」

令和時代はどんどんそんな風になっていくんじゃないか、って、僕は「信じている」のです(╹◡╹)

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今日の記事は以上になります^^

過去記事の通り、時に非科学的なことも信じる僕から(笑)、最後にYouTube動画を2つご紹介しておしまいにしたいと思います♪  信じても信じなくてもそれがご自身にとっての正解です☺️

まずこちら。“現実的スピリチュアル”のパイオニア、浅見帆帆子さんの動画です✨ 

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そしてもうひとつ。上掲の帆帆子さんと共作で本も出しているHonamiさんの動画です😊 話を聴いているうちにきっと笑ってしまいます。

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