今週のお題「感謝したいこと」
今回の記事はこれまで書いた中で一番長くなりそうです。これはある意味、僕がその先輩へ送る “お手紙” です。「先輩、読んでくれるといいなぁ」って思いながら、丁寧に言葉を選んで書いていこうと思います。
入社して最初の先輩
僕は入社して最初の配属が大阪でした。「埼玉県人、人生修業のため、なにわに放り込まれる」という感じですね。
僕が大阪の地で初配属されたお得意先担当チームは、今はもう存在しないこの看板の企業さんでした。
当時、店内で閉店の少し前に流されていた、「出会い、ふれあい、ニチイ〜♬」というテーマソングは、何百回と聴いたので今でもフルコーラスで歌えます。
先輩はこのチームのリーダー。東京の大学を卒業されていますが大阪の方です。年齢は僕とは一回り以上離れていました。新卒の僕は、「こんなに歳の離れた先生みたいな人と一緒に仕事をするなんて、会社ってなんだかとっても不思議だな・・」って感じていたことを思い出します。
先輩の際立った強い個性
今気づきましたが、「先輩」という呼称は、特定の人を指しているのかそれとも一般的な総称として使っているのか、頻度が増えるにつれて分かりにくくなりそうですね・・・
なので、どうしようかちょっとばかり考えた上で、「Nさん」と表記することにします。
Nさんの価値観は、「男はどんなに辛くとも戦い続けて勝っていかなくちゃいけない」でした。社内外問わず、常に誰かと勝負されていたようなイメージがあります。
当時、Nさんが “戦闘” の駆け引きでよく使っていた言葉が思い出されます。
「それは詭弁やな。」
「俺を論破してみろ。」
「俺と刺し違える覚悟があるのか?」
「これからはお前に対する見方を変えるで。」
その戦闘スタイルは、どちらかと言えば説得調で、相手が根負けして「もう堪忍して。わかったわ。好きにせえや・・」って言うまで何時間でも食いついて離さない、という感じのものでした。
Nさんは戦好きだというのに?かなり細かいことにもこだわりのある方で、僕はこの頃に「コピーした資料にホチキスを留める角度」とか、「社内メモの宛名の敬称の書き方」とかを指導してもらっています。
Nさんのこだわりを反映して、チームはほぼ毎日深夜前後の残業。全員が帰社して揃うまで退社してはいけないという半暗黙のお約束事もありました。
当時、周りの他の社員からは「あのチームだけは行きたくない」と評判で、よく他の先輩からは「大変やろ・・・」「毎日大変やな・・・」って苦笑い付きで声をかけられていたのを思い出します(^^;
ただ幸いなことに、当時の僕は、見知らぬ土地:関西でなんとか生きていくために必死に近いモードになっていました。会社に入って初めての仕事環境だったため比較するものも持っておらず、「社会人ってこんなもんなんだろう。とにかく無事に生きられているだけで幸せ。」みたいな感じでそれほど辛いとは思っていなかったのでした。
それほど辛いと思わなかった理由は、もうひとつあります。それはNさんが自他共に認める「義理と人情」に重きを置く人だったことです。“身内”が困難に陥りそうになるといつだって過剰なぐらい身体を張って守ってくれる力強い優しさがいつもそこにはあったのです。
満を持して仕掛けた初めての勝負
Nさんには、「この間言ってたことと今回言ってることが違う」ということがよくありました。
「えっ、この間はこうおっしゃってましたよね?」って言うと、決まってこう返されました。
「俺がそんなこと言うわけないやろ。」
当時、これには僕もチームの仲間も少々参っていました。。
一緒に仕事をさせていただくようになって3年目に入ったある日、僕はNさんに“戦い”を挑むことを決めました。「この話、後日ひっくり返されると嫌だな」と感じたNさんのある一言を手帳に書き留めて、来たるべき “決戦” の日に備えたのです。
幸が不幸か、数ケ月後、思いがけずその日は来ました。
僕からまず一言。
「この間、こうおっしゃいましたよね?」
それに対してNさん。
「そんなこと言ってないよ!」
ここで僕が勝負をかける!
「僕、前回間違いなくそうおっしゃったのを、ちゃんとこの手帳に書き留めてありますよ!」
これに対するNさんの一言は驚愕。
「俺だって書いてあるわ!!」
「頭の中に・・・」
この出来事があって以降、僕がNさんに戦いを挑むことは、“何十年も” ありませんでした。
男とは出世するために戦い続けるもの
Nさんとは、その6年後の2年間、そしてNさんがご定年間近のタイミング、という形で、計3回も同じ職場で働くご縁があったのです。
いずれのタイミングでお会いした時も、「人生は勝つために戦い続けること」という生き様は一貫していました。
3度目にお会いした時には、「男の人生の成功=出世」という信条を非常に強くお持ちでした。
そんなNさんの前で、当時、僕は「出世より家族を選ぶ」姿を見せたのでした。担っていた仕事と家族を両立する器量・技量が、当時の僕にはなく、どちらかを選ぶしかなかったのです。そこで仕事を選ばなかった僕のその選択を、おそらくNさんはとてもやり切れない思いで嘆かれていたと思います。
生き様をかけた“再戦”準備
その数年後、Nさんはご定年を迎えられました。以降の約8年間はお会いすることもなく、年に一度の年賀状でのご挨拶のみになってしまっていました。いや、正確にはあえて僕がそうしていたのです。
その理由は、僕がこう思っていたからです。
「Nさんは、出世を手放して家族時間を選んだ僕の生き方を決して許容することは出来ないはず。だから、今お会いしてもお互いに気まずい思いをすることにしかならないだろう。」
そしてこうも決めていました。
「僕自身が定年という節目を迎えるタイミングで、『僕は自分が選択した責任を全部引き受けた上で、自らが望む幸せをしっかり実現しましたよ!』という“実績”を携えて、僕からお声がけして会うぞ!」
突然の訃報
コロナ自粛真っ只中の4月半ばのことでした。
Nさんの突然の訃報。
もう、「えっ・・・」とだだ絶句することしかできませんでした。
菩薩様のような奥様
Nさんの奥様とは約30年前、ご自宅に遊びにお邪魔させていただいた時に一度だけお会いしただけの面識でした。
コロナ自粛下ゆえ弔問に伺うわけにいきませんし、いきなり電話をしても戸惑わせてしまうに違いありません。
丸2日ほど考えた末、僕は大阪時代のチーム仲間に声をかけて連名で、弔意の手紙を添えて「花と緑のギフト券」をレターパックライトで送ったのでした。直筆で弔意の手紙を書いたのは僕です。
レターパックライトにしたのは、受け取り印が不要であることが理由でした。さらに、お返しのお気遣いは不要という一筆はもちろん添えましたが、きっと何かしらお礼の術をお考えになられるだろうとは思いました。住所の記載をしないことはかえってお手間を取らせてしまうと考え、僕らの氏名と住所を記載したメモを付けましたが、そこに会社のメールアドレスも記載することにしたのです。メールであれば、定型文ベースの内容を宛先複数指定で一発で送信できるから、少なくとも“見知らぬ相手”に電話をする心労は避けて最小限のお手数でご対応していただけるだろうって考えたのです。
しかし、Nさんの奥様は、レターパックに記載された僕の携帯番号の方に電話をかけて来られたのです。
奥様は、丁寧な口調だけど、昔から面識があるかのような優しく温かい雰囲気で、Nさんがご定年以降どんな生活をして来られたのか、そして病の発症から闘病の経過の話、さらには闘病の末期にNさんと奥様の間だけで交わされた大切なお話まで本当に詳しくお話ししてくださったのでした。
僕は思いました。
なんだか菩薩様のような奥様だな、って。
この奥様がいつもそばにいたからこそ、Nさんは生涯を通じて、安心して“戦”を続けることができたんだなぁ・・・って。
30年かけてNさんから教わったこと
僕の人生においてとっても大切なことです。
だからあらためて自問自答しました。
それはこれです。
自己責任で信じる道を進むことこそ幸せ
僕はこのことを、気づかぬうちにNさんとのご縁から教えてもらっていたのでした。
そして、自分の望んでいる幸せが「勝負に勝つために戦い続けること、ではない」ということに気づかせてもらい、自分が本当に望むものを自分の意思で選択する背中も押してもらっていたのです。
Nさんは天国に旅立つ前に、僕にもうひとつギフトをくれました。
Nさんっぽい言葉で書くとこうです。
「自分のそばでいつも支えてくれているおかあちゃんのこと、ずっと大切にせなあかんで!」
Nさん、人生で大切なことを、常に身体を張って、僕に30年もかけて教えてくださって、本当にありがとうございました。
あらためてご冥福をお祈りします。