“緑色”的な僕のほんのりワクワクblog

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コロナ禍の年の瀬に思う

こんにちは^ ^

今日の記事は、タイトルはこのままで行きますが、副題『唯一絶対の正しさがなくなる時代の始まり』みたいな思いを持って書こうと思います。

 

“コロナ感染リスクの高い人”

高齢者、それも高血圧や糖尿病を持っている人は特に高リスク、って言われていますね。

埼玉の実家で一人で暮らしてくれている僕の母は、まさにこれに該当しています。

数週間前、かかりつけの病院での定期診察でも、先生から、まさにこう念押しされて帰ってきています。

 

「あなたは、高血圧、糖尿病持ち。特に気をつけなくちゃダメよ!」

 

母は、特にコロナ禍に入ってからは、病院に行く以外はほとんど家にいて、テレビのコロナ報道という名のシャワーを毎日 “浴び続けて” います。

そんなこと、先生に念押しされなくったって、母は、すでにもう十分わかりすぎるぐらいわかっているんです。

もう十分すぎるぐらい気をつけて用心して過ごしているのに、先生にそんなダメ押しされたら、「気をつける」を超えて、「不安〜恐怖」の域に入ってしまいます。

母は人前では「私は何でもできるのよ。」「どんなことがあったって動じたりなんてしないんだから。」みたいな外ヅラをしてしまう性格なので、先生もきっと、「この人にはこれぐらい言っておいてちょうどいいぐらいだろう」って思ってのことだとは推測しますが、

でも先生、

「あなたの表現は刺さりすぎました。」

 

そして数週間前、母は僕に電話で言いました。

 

「コロナが怖いので今度の正月は来ないで。」 

 

そしてつい先日、僕と同様、東京に住んでいる妹に、母から電話が来て、開口一番、こう言ったんだそうです。

 

「寂しくてなんだか飛び込んでしまいたい気持ちになってしまったからたまらなく電話したの。」

 

 

先日した職場での会話  

奥さんが大阪出身の同僚との雑談です。

 

僕:「年末年始は大阪へは行くんですか?」

彼:「家内のお父さんがだいぶ弱っていて、親族みんなで顔を見せてあげられる正月も今回が最後じゃないか、って状況なので、子供たちは連れて行かずに夫婦だけで1月3日の日帰りか1泊2日で行こうかって話を家内としてるんです。」

彼:「東京から来た人間にあまり長く居られるのも、向こうの人たち、嫌がるでしょうしね、、」

 

僕が彼でもきっと大阪に行くだろうって思いました。「別格最優先」という自分の正しさを選んで。

 

せつないジレンマ

これまでの時代はずっと、マスコミから発信される “正解” を知り、その通りにしておくことが適切な意思決定であり行動である、という常識だったと思います。

でも、今回のコロナ禍でその “神話” は崩れたように感じています。

もしこのままずっとコロナが収束しない状態が続いて、それゆえ母にはずっと会えない状態が続いた場合、会えるのはきっと母の命に関わる「有事」の事態の時。

ということになった時に、僕は、それ以前のまだ元気だった母に会っておかなかったことを大きく後悔するんじゃないだろうか。

でも、、母が「怖い」って不安と恐怖を感じているのだから、強行して会いに行くわけにはいかない。

 

せつないジレンマ。

 

少なくとも、マスコミが日々連呼し続ける “唯一の正解” ほど単純な話ではないとしみじみ思います。

 

世の中に目を向ければ、いや、もはや目を向けなくとも感じられてしまうレベルで、もっと大きなジレンマがありますよね。

本来、稼ぎ時の年末年始に、また営業制約を求められている飲食店、旅行業界、レジャー業界、他。ここまで自助努力でなんとか頑張ってつないできていたとしても、今回はもうあまりに、あまりにキツいんじゃないでしょうか。 

 

「コロナ感染する前に、生活できなくて死んでしまうよ!!」

 

って状況に直面している人達がいたとして、彼らが生きられる可能性が少しでも高い選択、自分の家族を守るためにする選択に対して、「それは正しい」とか「それは間違ってる」とか、僕にはもうそういう判断をすること自体がとてもできません。

 

一方、医療関係者の方々の命がけの苦労も知っています。そこからすれば「自分が許容できる最大限の自粛を」って思います。

 

みんなが不安を解消して幸せを取り戻すための「唯一絶対の正解」がもはや見つけられません。

その通りに従っていればみんな幸せ、なんてのも全くをもってあるとも思えない。

 

せつないですね・・・なんだかやり場のない憤りも湧いてきます。

 

現況を客観的に捉えれば、“今の社会システムがみんなが幸せになれる前提で作られていない証し”、だと僕は思っていますが、こういう話は「せつない」からさらに下がって「ネガティブ」に落ち込むだけなのでこれ以上は深掘りしません。

 

長引くコロナ禍で僕が悟ったこと

「この通りにしていれば大丈夫です、安心です、幸せになれます」っていう、唯一絶対の正解があるかのような長い幻想の時代はきっともうおしまいに向かっているんです。

やっぱり、これからの時代は、「自分以外の人の正しさ」の存在を尊重しながらも、自分が実現したい幸せにつながっている「自分の正しさ」を自分の意思で選択して生きていくことが肝要になってくる、ってことなんだろう、って思います。

自分のその選択に必要なのは『自己責任』

このブログを始めて、僕はこの『自己責任』ということの深さを知りました。先が100パーセント見通すことができない時に自分が果たす覚悟をする責任、についてはまだ明確な答えは出せていません。もしかしたらこれはずっと答えが出ないまま、で、それでもその時に信じる選択をして前に進んでいくようなものなのかもしれない、って今は感じています。

この長いコロナ禍がなかったら、きっと僕はこんな気づきを得ることは出来なかった、って思います。陰と陽のバランス、という視点で捉えれば、コロナ禍の大きなジレンマや憤りをネガティブだとするなら、この悟りがそれに見合った、これからの幸せにつながる大きなポジティブ、ってことなのかもしれません。

 

ネガティブとポジティブの両方が見えている “まんなかの状況” で、「しんちゃくん、君はどちらを自分の現実として選択する?」

 

僕は、気づいたポジティブの方を選択することで、それによって輝きを増す幸せの光に向かって行きたいと思います。

そのためには、やっばり「自らの心のコントロール力の向上」が必要。

 

長いコロナ禍がもたらしたネガティブがくれたポジティブな気づきに対しては、あえて、あえて「有り難う」という感謝の言葉を置くことで、ネガティブの暴発を “封印するおまじない” にしておこうと思っています。

 

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