ご訪問してくださりありがとうございます(╹◡╹)
今年のコスモスの開花については、1週間ほど前に、国営昭和記念公園のホームページにもこんなご案内が掲示されていました。
2021年のコスモスももうそろそろフィナーレなんですね。
今日の記事では、今年のコスモスを訪ねた散歩で撮影した、“お気に入りの写真” をアップさせていただいた上で、心に浮かんできた思いを綴りたいと思います ♪
今年のコスモスの印象。
ピンク色の花を中心にお馴染みの『センセーション』という種は、花自体は元気に咲いていたものの、台風もどきの強風の影響が大きかったようで、倒れてしまっているものも多かった印象でした。
そんな中で力強い安定感だったのが、黄色の『キバナコスモス』でした(╹◡╹)
協演作品。
実は、計3回ほど公園へ散歩に行って撮影したコスモスの写真のうち2回分を、僕自身の “あまりに不注意なアクシデント” により消失してしまっています。そのため、本日アップさせていただく写真は、冒頭で「今年撮影した写真」と書きましたが、実は「昨年撮影した写真」との “協演作品” になりますこと、あらかじめ正直にカミングアウトいたしますm(._.)m
では参ります♪
『コスモス』で心に浮かぶのは。
僕の場合、山口百恵さん、なのです^^;
なぜ、コスモスで百恵さんなのかと言えば、その百恵さんが『秋桜』という曲を歌っていたからだと思います。
ブログを始めて何回目かの記事に書いた記憶がありますが、僕が確か小学校3年生の時が百恵さん(当時はもちろん「百恵ちゃん」)が芸能界デビューした年で、その年に僕の街の駅前の夏祭りに来てやぐらの上でデビュー曲を歌ってくれました。
そう、のど自慢大会?の頭か途中に、確かこんなやぐら(のもう少し簡易なやつ)の上で歌ってくれました。
とても部分的な記憶だけれど、それまでにテレビで何度か観たことのあるアイドルを直接見られたことで、僕はとってもワクワクしていたと思います♫
それを見て以来、百恵さんは引退するまでずっと憧れの女性アイドルでした ♪
『秋桜』。
僕と同世代以上の方ならこの曲を知らない方はいらっしゃらないのではないかと思いますが、動画をアップされているYouTuberさんにお借りしてご紹介します。
さだまさしさんが作ったこの曲。当時の僕はまだ子供すぎて、実は「生真面目すぎてちょっとつまらないよ、百恵ちゃん」って思ってしまっていました^^;
しかし、今あらためて聴いてみると、これから先もずっと歌い継がれていくに足る “昭和の名曲” だったんだなぁ・・ってわかります。
ただ・・・実は、僕にはこの『秋桜』の曲のイメージは「和」な感じがかなり強くて、今、実物のコスモスを見ても、この『秋桜』の曲のイメージにつながらないんですよね・・・^^;
子供の頃は団地育ち、今はマンション住まいの僕には、「縁側」と「コスモス」がイメージ的に結びつかない、のでしょうか?!
それでも百恵さんなのは。
コスモスの花たちを観ている時に、僕の頭の中に流れてくるのは百恵さんのこちらの曲なんです^^
おそらくはアルバム収録の曲なのですが、百恵さんの曲の中で僕が一番好きな曲です(╹◡╹)
曲の一番だけ歌詞も引用します♪
哀愁のコニーアイランド
歌:山口百恵
作詞:森雪之丞 作曲:大瀧詠一
潮風に
錆びた観覧車
夕焼けが やさしく染める
昔パパとはぐれた この場所で
不思議ね 今でもまだ私は迷子
Lu Lu Lu …
“You will lose your love”
今度も ジルの占い
きのうのことしか あたらない
あの人ったら やさしいの
私を起こさず出ていったわ
まるで そよ風みたいに
Lu Lu Lu …
きっと大瀧詠一さんが作曲だからでしょう、歌謡曲というよりもシティポップな曲調で、今聴いても全く古さを感じない素敵な曲だなぁ♪ ってあらためて思います^^
「でも歌詞がコスモスと関係ないよねぇ、、、」
はい、、この曲の舞台はコスモスガーデンではなく米国の遊園地ですし、失恋の歌だし、全くコスモスと関係ないんですけど・・・^^;、
なんていうか・・・メロディー、雰囲気ですね。
コスモスが“そよ風”に静かに吹かれながら咲きほこる秋の光景にとてもマッチしているように感じるんです♫
やっぱり『秋桜』のことも。
百恵さんからのインスピレーションで記事を書くことも今後なかなかないだろうって思うので、『秋桜』に戻って、この曲から今の僕が強く感じることを、今日の記事の最後として書きたいと思います。
まず、曲の歌詞を一番だけ引用しますね。
淡紅の秋桜が秋の日の
何気ない陽溜りに揺れている
此頃涙脆くなった母が
庭先でひとつ咳をする縁側でアルバムを開いては
私の幼い日の思い出を
何度も同じ話くり返す
独言みたいに小さな声でこんな小春日和の穏やかな日は
あなたの優しさが 浸みて来る
明日嫁ぐ私に 苦労はしても
笑い話に時が変えるよ
心配いらないと 笑った
このお母さんの気持ちに感情移入してしまいます。
この頃、「嫁ぐ」とは「苦労」があることが当たり前の時代だったんですね。その苦労の中で大きかったのは、きっとお姑さんとの関係だったんじゃないのかな・・・って気がします。
『○○家』という概念。家の大小に関係なく『○○家』。これ自体は、命をつないできてくれた先祖への感謝、という意味で、日本人らしい素敵な部分でもあるのでしょう。
ただ、○○家の『嫁』、となってくると・・・。
ここから書くことは思い切り僕の主観であり、あくまで僕が信じる正しさであることをお断りした上で・・・
『○○家の嫁』という言葉には、“家の常識”という “暗黙の了解” を使って意の通りに従わせたい、従ってもらいたい、というニュアンスを含んでいるように感じてしまうんです。「多様性」から最も遠ざかってしまうような感じがします。
僕は、『“常識”という名の幻想』が人の『心』より上位になるような概念が好きではありません。
僕は僕の妻に対して、「こんなへなちょこな僕と結婚してくれて、そして今に至るまでずっとそばにいてくれて本当にありがとう」っていう深い感謝の思いがあります。そんな僕にとっては『家の“常識”とか“べき論”』なんかよりも彼女の『心』の方がずっとずっと大切です。
2人の娘の父親でもある僕は、かつては結婚に伴う“常識”とされていた類の苦労などしなくてもよい、何より心を大切にしてくれる人たちとのご縁が彼女たちにありますように、という思いが、彼女たちの成長を見守る日々を重ねる中で少しずつ増してきています。
多様性の時代、正解がひとつではない時代は、きっと心の時代。過去から現在に至る「見えないものへの感謝」は忘れることなく、お互いの正しさを尊重し合いながら、みんなが笑顔で幸せを共創できる、そんな時代が来ると嬉しいなぁ、って思っています^^