今日の記事は、思いに任せて綴っていくスタイルで参ります。無事に記事として結べればいいのですが^^;
まず、今日の主役の花はこちらです♪
都内に「ハナミズキ園」なる名所がないのは、この花木が日本古来のものではなく、明治時代に当時の東京市が米国ワシントンに桜を贈った返礼として贈呈されたことから国内の歴史が始まると知ったのはつい2年前のこと。
それどころか、僕の中でハナミズキの名前と顔が一致したのも恥ずかしながら時を同じくします^^;
それ以降、「街にはなんてたくさんのハナミズキが植えられているんだろう」って思う4月は3回目。
街路樹としても、一軒家の庭や玄関でも、本当に街を歩けば、この時期はどこかですぐに目にできるぐらい身近な花木です。
この3週間ぐらい、ずっとハナミズキウォッチをしてきました^^
まずは『青空の下で』から♪
続いて『生活に溶け込む感』でのチョイスを^^
ここからはランダムに参ります♪
とか言っておきながら「白組の皆さーん!!」
そして「紅組の皆さーん!!」
「こりゃ紅組の勝ちかなぁ」って思いきや。
「ちょっと待ったぁ!」と白組の声。
「こうなったら大人の世界で勝負だぁ!」
「果たして紅組はついて来れるのか??」
「では審査結果の発表です!!」
と思いきや、どこか上の方から?!こんな声が。
「ハナミズキは友好のシンボルだから、勝ち負けを競ったりしませんよ」
ここで妄想から目覚める。笑
「友好からスタートしたハナミズキ。今では街の至るところで日本の暮らしの中にあるハナミズキ。いわば日々の平穏な幸せのシンボルだよな....☺️」
平穏な幸せのシンボル。
子供の頃、そんな風に感じる風景ってあっただろうか?って思い返してみると......
「あ、夕焼け、かも🌇」
当時の感覚ににぴったり来る写真を、無料写真素材サイトで30分以上探しましたが、ぴったりな風景は見つかりませんでした。しかし、色合いとしては、こんな感じだった様な気がします☺️
なんとなくキラキラしててあったかく柔らかい。
まだ「平穏」などという言葉を日常で使うことはなかった当時の僕に、「その時の感覚を言葉にしてみて」と問いかけたら「なんか安心する感じ」って答えたかもしれません。
大人になってから夕焼けを目にすることは本当に減った様に思います。「どうしてかな?」って考えてみたらすぐにわかりました。その理由は「夕焼けの時間帯に外にいないから」です。会社人生の大半を内勤スタッフでここまで来た僕は、夕方に外にいることが稀少です。加えて、近年になり朝好きになった僕は、休日の散歩もほとんどが午前中から夕方前までで終えて帰宅しています。
このブログを始めて以来、夕焼け(っぽい)写真は記事に載せていたかな?って調べてみました。
「やっぱり少ないよなー」って思っていたら、ふと頭に浮かんできた“夕焼け”の思い出。
これまでの人生で一度だけ、人前でギターの弾き語りをしたことがあります。
それは中学3年の3月。高校受験を終え、卒業式まであと数日のタイミングでクラスで企画された「お別れ会」です。音楽の授業時間を通じて、ギターがそこそこ弾ける感じを醸し出していた(笑)僕を含む3人が、そのお別れ会の幹事から依頼を受け、3人で全4曲を演奏しました。ギターを弾くのはいいけど人前で歌うのはちょっと恥ずかしい年頃。ギターは弾かない幹事も巻き込んで1人一曲ずつ歌うことになったのですが、その時に僕が選んだ曲は、タイトルに “夕焼け” が入ったこちらの曲でした。
YouTuberさんのオリジナル動画を背景にご紹介します。
この曲はアルバムにだけ収録された、おそらくはクラスの誰も知らない曲。実は当時の僕も、この曲が大好きというわけではありませんでした。「この曲にしたい」と他のメンバーに話した時、彼らの第一声は控えめながらも苦笑いで、「えーっ、なんでその曲なの?もっとみんなが知ってる曲にしたら?」でした。
「なんでこの曲にしたんだっけなぁ」って思い返してみると。
まず、当時の僕はギターをストローク(ジャンジャカジャカジャン)で弾くことに苦手意識があったので、ストロークを使わない曲を選びたかった。そして、この曲はストロークなしでほぼ原曲のギター演奏(アルペジオ)通りに間違えずに弾ける曲だった。当時自覚していたのはこの2点だったように思います。
でも今思い返してみると、卒業への思いから “夕焼け” の歌が歌いたかった、というのもあったのかもしれません☺️
僕には、『平穏』って言葉を聞くと思い出す作家さんがいます。もう12年前に亡くなられているスピリチュアル系の作家さんです。ご存知の方もいらっしゃるのではないでしょうか。
小林正観さん。上掲の本は正観さんの遺稿です。
当時、最も印象に残っていて僕に大きな影響を与えたメッセージがあります。正確な文章は再現できないのですが、要旨として「変化が常であることが絶対ルールのこの世の中で、平穏(=不変)が続くというのは“神様からの恩寵(ギフト)”でありとても有り難いことなのである」というものです。最初のうちは素直に「平穏を有り難うございます」って思っていたのですが、そのうちこんな疑問が湧き始めました。
「平穏な幸せを望むことは、変化し続ける諸行無常の世の中のルールに反している不自然なことなのか?」
「諸行無常のこの世の中で生きていく上では、その流れに乗って、冒険のように新しいチャレンジをし続けていくことが最も正しい生き方なのか?」
その疑問に対する明快な答えは今も出せていません。むしろ最近、この疑問に答えを出せていないことに対する戸惑いや焦りが出てきている感覚さえありました。
そんな中でものすごく久しぶりに手に取ってページをめくった正観さんの上掲の遺稿。今回、目に(心に)止まった文章を引用します。
まずは、目次に添えられた短文のメッセージを4つほど。
人間の欲望、欲求、執着には際限がありません。足るを知る。これに気がつかない限り、人間が幸せになることはないでしょう。
向上心という名の努力、頑張るという名の自己向上、そして今の状況に満足をしないことは、悪魔さんの陰謀かもしれません。
競うこと、比べること、争うことは必要ありません。自分の持っている良いところで社会に参加する。いろんな力が集まって社会は成り立っています。
心が伴い言葉に出し、さらに行動すること。この三つが日常生活の中で同じ方向を向いていることが重要です。三つが整ってくると、毎日が豊かなものになります。
そして本文の中のこちらの文章。
私たちは自分の力、自分の努力や頑張りで生きていると思い込んでいますが、実はもっと基本的なところで、私たちの力によるものなどなにもなく、生かされています。ですから、人やもの、すべてのことに対して、私たちは感謝をするほかはありません。私たちにできることは、感謝です。その感謝を惜しみなく実践し、それを周りに分け与えていく。その感謝の心を投げかけていくということが、徳なのではないでしょうか。
今あらためて読んでみるとこう感じます。
平穏を志向することは◯か✖️か、あるいは、新しいことにチャレンジし続けることこそが◯か✖️か、が重要なのではなく、諸行無常の世界の中で『感謝力』を深めていくこと、それ自体が変化(進化)であって、諸行無常の流れにしっかり乗っていることなのかもしれない....
最近ずっと「これから先、何をやろうかちゃんと考えなくては」ってことを気にかけていましたが、「どのように感謝力を高めていこうか」という視点から思いを巡らせていく方が、もしかしたら幸せに無理なくつながるアプローチ方法なのかもしれません。
僕が気にかけなくても世の中は常に変化し続けているのだから、新しいことをやらなくちゃって僕が意識しなくたって、自分がやっていること、やろうとすることの全てが変化の一部。心と言葉と行動を一致させながら感謝力を高めよう、って気にかけているだけでも、幸せ増し増しに感じられてくるの “かも” しれない。
『心の旅』 は続きます。